「哲学?」どちらかというと、「あきらめ」に近い話

「稲盛のジジイ寿命あと何年かな?」
目の前に映るスクリーンを観ながら、京セラフィロソフィーの研修を受けていた。
「なるほど、今年90歳になるのか……」人生100年時代と言われる昨今、まあもってあと10年くらいかなと。
人生の大先輩の言葉に共感しながら、首をふんふん縦に振っていた。所属している会社が京セラフィロソフィーを導入して記憶に新しい。
部署のメンバー全員とフィロソフィーを共有しながら、書いてある言葉を自分なりに理解をして、発表をするのである。アメーバ経営を導入して、部門別採算制度という新しい概念を生み出して、日本航空を建て直すことに。
功績は大変素晴らしく、様々な企業に導入されることになった。自分の会社もその一つである。
哲学は素晴らしいものであり、自分もその担い手として人生を輝かせたいと思うのだが、地元の小さな町工場が背伸びをしたような会社が、ソフトウェアを高性能にしたところで、それに伴うハードウェアがついて行っていないように感じるのである。
午後1時から5時まで4時間という時間を生産に回すことが出来れば、最終的な売上や利益に繋がるのように感じるのだが、目的が見失っているように思う。利益を追求することが会社の発展になる。考え方が浸透する以前に、日本人なのだが、コミュニケーションエラーを頻発しているのにも関わらず、高尚な言葉を理解しようにも理解できないではないか。ただでさえ、テキストを読む行為が減っているのにも関わらずに、平成と変わらない同じような研修をしたところで、時間とともに風化するのではないだろうか。自社も京セラフィロソフィーを元にオリジナルのフィロソフィーを数年前から導入しているが、そのままコピーアンドペーストしてるほどであった。著作権という概念をご存知ではないのだろうか。思考力を養うどころか、思考力を奪われていることに気がついていないだけなどだろう。情報を選ぶことすら忘れてしまったようだ。末恐ろしいことが目の前で起きている。

「危険な思想なのではないだろうか?」同じ目標を掲げて会社を大きくするという点では非常に良いが、現場にいる末端の人間に届くのはいつになるだろう。具体的な年数、売上、利益。そこを具体化しなければ、存続できないのではと感じる。昨今の製造業はどこも似たり寄ったりであり、技術的革新も大きな会社と資本があってこそである。資源がなければ、新しいことにも挑戦することができずに同業他社に移ってしまうのである。実際に自分の会社でも、仕事ができる人、意思疎通ができる人がここ数年で転職を決めるのであった。

ワクワクした未来が考えられないのであれば、場所を変えるのもひとつである。

仲の良かった転職時期が被った同い年が居たのだが、2月の終わり頃に転職を決めてしまったのだった。社内SEであり、今は開発メインのSEになったようだ。年収も上がったらしい。自分も体力的な問題、収入の面を考えるとずっと出来るものではないと思い、昨年10月から転職活動をしている。

転職サイトの応募数を見ると200社を超えていた。自分も人生の岐路はいつ訪れるのだろう。書類選考で落とされ、ウェブ面接で落とされ、対面での面接でも落とされ、「自分には社会的価値があるのだろうか……」と、責めてしまいそうになった。愚痴を言ったところで自分の問題であるため、それを他責にしてしまえば楽なのだが、200社を超えたところで、問題は自分にあるという事実しかなかった。自分のファンクラブサイトを立ち上げて、ファンのメンバーからお金をいただくサブスクを考えようとしていた。価値がない自分でもどうにかしてネットの海から物好きを集めるという。バカな考えが頭に浮かぶ。そんなことしたところで何も変わらないのに。